このブログはもともと、元警部補が飼っていた小鳥「インコ」の飼育過程を紹介する内容だったが、ゲイ・ホモ系画像を貼り付けた途端、アクセス数が飛躍的にアップしたため、元警部補のエロ画像貼り付けはエスカレート。いつしか男性同性愛者のファンが集まるブログに“転換”していった。

「人が動かない理由」

には以下の4種類があることに気づきます。

1 知らない(現状を実感として把握していない)

 内部にいると、厳しい現状でさえ日常になってしまい、危機感を失っていた。

2 責任を取りたくない

 賛意を表明してしまうと、失敗したときに自分の立場が悪くなるから。
 現場での協力はするが、賛成はしないという人もいた。

3 めんどくさい

 現状を変えるのが面倒なので、あれやこれやと、
 うまくいかない理由を挙げてやらないで済まそうとした。

4 あなたが嫌い

 改革着手当時は20代とまだ若く経験も浅い漆氏、
 校長の娘という立場を盾に、偉そうなことを言っていると感じる人がいた。


漆氏は、それぞれの理由について、
次のような工夫で乗り越えていったそうです。

1 知らない(現状を実感として把握していない)

 外部から見たらどんなに厳しい状況なのか実感してもらうため、
 外の人に会いに行く時、同僚たちにも同行してもらった。

2 責任を取りたくない

 学内の様々な改革プロジェクトチームにおいて、
 漆氏が「私が責任を取るから!」と、いわば皆の「風除け」になることを明言した。

3 めんどくさい

 できない理由を挙げる人は、漆氏とは「違う絵」を見ていた。
 漆氏は、改革がうまくいった時に、生徒が喜んでいる「ゴール」のイメージを描いていたのに対し、
 動かない人たちは、そのプロセスで遭遇するであろう、さまざまなトラブルや障害をイメージしていた。

 つまり、人によって、ゴールorプロセス、
 あるいは成果orリスクのどちらか一方しか見ていないことがあるということ。

 そこで、漆氏は相手の見ている絵がどんなものかを聴き、
 一方、漆氏は、自分見ている絵がどんなものかを相手に伝えた。
 こうして、お互いの見ている絵を交換することで、改革に対する理解と行動を促した。

4 あなたが嫌い
 
 わずか5分でもいい、改革に関わる簡単な仕事を頼み込んでやってもらう。
 そうすると視点が変わり、主体者意識が出てくる。
 こっち側に一度でも連れてくれば、漆氏は嫌いな対立者ではなく、同じ改革に取り組む仲間になる。

技術というより真面目で丁寧なのが売り
だんだん不真面目になってきたから終わり

オレの名は「ジェイ・スクリプト」。20世紀最末期の「第一次ブラウザ戦争」でエース部隊に徴用され、最前線で殺戮を繰り広げた。オレたちに課せられた課題は重大だった。相手方ブラウザの殲滅。オレたちはマイクロソフト帝国の最新鋭上陸艦「IE4」に搭載され、次から次へとコードを実行した。戦いは熾烈を極めた。オレたちはどんな汚いコードでも動いた。カーソルをクマさんに変える。アイコンを点滅させる。今日のお知らせをポップアップさせる。世界時計をスクロール表示させる。それが果たして本当にそのウェブページに必要なユーザビリティなのかを問うこともなかった。しかしいつしかオレたちは気づいた。敵艦「NN4」に搭載されているのもオレたちとまったく同じスクリプトなのだと。やがてオレたちが属する帝国が領土のほぼ九割を制圧するに至り、戦争は膠着状態にはいった。敵国は壊滅されたかに見えたが、やがて「ファウンデーション」の支援を受けた「Mozilla」と名乗る組織が活動を開始し、戦線はゲリラ戦へと移行した。そこでオレたちが目にしたものは、累々たる「ウェブ標準」の屍だった。HTML空間は捻じ曲がり、CSSはズタズタに引き裂かれた。ウェブデザインはブラウザのバグ調査と同義となっていた。オレたちスクリプトはSPAM広告と詐欺サイトの温床と罵られ、ウェブ標準の敵として機能停止させられる場面も数多くなった。オレたちは傭兵となり、戦える場所を求めて転戦に転戦を重ねた。いつしかオレたちは、あるウワサを耳にするようになった。第三勢力「ウェブツー・オー」が最新鋭部隊「AJAX」の要員を募集している。そこではランチとスナックが食べ放題らしい。しかしオレたちを刺激したのはそんな待遇面ばかりではない。そこではオレたちスクリプトに、プログラミング言語として「ふさわしい」仕事を用意しているという。オレのかつての同僚が「メールクライアント」を丸々まかせられたと聞いたときには耳を疑った。ひたすらポップアップ画面を点滅させていたあのウスノロがだ。いったいこのブラウザの地で何が起きているというのか? そしてオレもまた曳かれるように断続的に局地戦が続く「SHIBUYA」の地へと赴いた。それはあの血を血で洗う「ちょろめ作戦」発動直前のことだった……。

次回「AIRの脅威」。井の頭線渋谷駅の上で飲むスタバのコーヒーは苦い…

「何を知っているのか」が問われる時代から「誰を知っているのか」が重要になる時代に世の中がシフトしているのではないか?これが私の仮説です。

「資格」が割りに合わない時代がやってきた - 内藤忍の公式ブログ (via nubonba)

「誰を知ってるのか」が重要になったとしてみんなが誰が知っているのかだけを追求し始めて何かを知っている人が誰もいなくて右往左往しているのが今の我が国なんじゃないでしょうかね。

別の言い方をすると誰を知っているかではなくて誰に知られているかというのが重要なんだと 思いますよ。

英語ではconfidenceという。
confidence、という言葉を見て「自信」という日本語が頭に明滅してしまったひとは、もうそこで大誤解が始まってしまっている。
一回深呼吸をして、そーか、 confidence、という言葉があるのだな、と思ってくれるのでなければ困ります。

「経済」というものは一面、政治のように信条によって一致することのない、さまざまな思惑をもつ人間の心理の複合体だが、この confidenceはいわば経済という欲望と恐怖心がないまぜになった巨大な乗り物の燃料で、これによって経済は動く。

confidenceが高まってくれば投資家は投資し、ビジネスマンは「いよいよ貿易風がふいてきたぞ」とつぶやいて、帆をあげて出帆して事業拡張の冒険に乗り出す。消費者は猛烈な勢いで物欲のトローリー(カート)にものを積み上げてレジに並ぶ。

一方で市場が冷え切って困憊しているときに、なんらかの理由によって合理的なconfidenceを獲得しているひとは比較的簡単に市場における勝者になってゆく。
ひらたく言えば「金持ち」になります。

日本の経済が凋落したのは、そして、その低落の谷間から抜け出せないでいるのは心理的には無論このconfidenceが失われてしまったからで、あたりまえだと思うが、経済を再建したいと思えばどうすればそれが再び獲得できるか考えないと仕方がない。

日本にいるあいだ、「どうしてこの国のひとびとにはconfidenceがないのだろう」と考える、わしの眼についたのは、日本という国に参加している人間全体の「途方もない忙しさ」と「空間のなさ」でした。
へっ? そんなことが経済と関係あるの? というひともいるのかも知れぬ。
おおありなんです。
急に訳のわからない不公正ないちゃもんをつけにくるのでおおありくいは嫌いだが、おおありはおおありなんだから仕方がない。
お話をつくるのが上手だとゆわれているしな。

時間というものは一時間あったら50分しか使ってはいけないものだ、とわしは子供の時おそわった。
どんなに根を詰めても10分は休まないとな。
朝の8時から起きて一日を過ごせば、午後8時にはほぼ完全な休息に入らなければ人間は人間でなくなってしまう。
10歳以下の子供なら午後8時はもうベッドに入っている時間である。
眠るためでもあるが、日常とは切り離された時間のなかで、いろいろなことを考えるためです。

日本のひとは時間を隙間なく埋めてしまうのが大好きなようにみえる。
「ぎっちりした時間」が出来上がると、ちょっと嬉しそうだ。
逆に午後4時から午後7時まで「なにもない空白」な時間があると、とても不安になったりしそうである。
この3時間を、どうやってすごせばよいだろう。

ほんとうは、3時間も空いてしまったら、大チャンスなのだから、もしきみが海辺の町で仕事をしているのだったら、ベーカリーによってクリーム・バンを買って、コーヒーのボトルをもって、海辺のベンチに歩いておりていって、ぼんやり海を見ているのが良いのです。
ずっと昔のことを考えて、ああ、あんなことあったなあ、と頭の奥のすみっこで曖昧な輪郭をなしている記憶を呼び起こす。
持っているクルマのサードギアがスムースに入らないのはなぜだろうと思う。
自分にはどんな伴侶が向いているのだろう。
SFって読んだことないけどおもしろいのかな。

文明人の特徴というべきか定義というべきかは、まさにこれであって、文明人で精神が健全なら「3時間」などは、そうやってぼんやりものごとを思い浮かべているだけであっというまに経ってしまう。
そうやって3時間を過ごせないで退屈してしまうひと、というのは、それだけ自分の中の文明が破壊されてしまっているのだと思います。

confidenceというものは、いったんなくなってしまったところからは、世界との距離が少しあって、自分を取り巻く世界のさまざまな要因を「世界が動いているのとは異なった時間のなかで」観察し考えてみないと恢復できない性質のものなので、3時間ぼんやりと海が見られないひとには再獲得できない性質のものである。
世界と同じ時間で自分が動いてしまうことを、多分、日本語では「流される」というような言葉で表現するのだと思うが、言い得て妙であって、自己の意識としての時間の流れと世間の時間とが一致してしまえば、「個」というようなものはなくなって、流れのなかで溺れてしまうだけである。

しかし、そんなことを言っても、おれはビンボーヒマナシで時間がないんだよ、というひともいるに違いなくて、実はそれは正しい、というか、経済上は重要なことを示唆している。

「賃金が安い国は賃金が安い国との競争になる」
というのは別に経済の知識がなくても直感的に明らかだと思うが、デジタル製品がその良い例で現代の経済では「ものをつくる」社会は際限のない低価格競争に必ず巻き込まれる。すると必然的にその市場で労働するひとの賃金は安く抑えられ、安い賃金で労働するひとの社会では時間が失われ、confidenceも失われてゆく。

おもいきって高い賃金を支払うことに決めた社会では、通常、知財産業か知識集約型の社会にならざるをえなくなってゆきます。
むかし、工業に職人的要素が残っている頃は、そうでもなかった。
前にも書いたことがあるが、レクサスの熟練工員はボディの表面を手でなぞってみて、ミクロンの単位の凹凸がわかる。
日本と並んで(といっても日本よりはややうまくもちこたえているが)製造業にしがみついて将来を失いつつあるもうひとつの「先進国」であるドイツ人は、さまざまな職人的な工夫によって機械に「文化」をしみこませるのに巧みなので有名である。
そういう「質の差」によって高利益をあげることが可能だった。

義理叔父が「どエクセル」と呼ぶ、中国の「KINGSOFT OFFICE」の表計算ソフトは、使っている方から見ると、通常のビジネスで使っている限りマイクロソフトの「エクセル」と何も変わらない。
インターフェースも同じならデザインまで同じである。
中国製の、いま名前がちょっと思い出せない4輪駆動車はどこからどうみてもトヨタの「ハイラックスサーフ」と同じクルマだが、ひとつだけ違うところがあって、オフロードはおろか坂があがれない。
乗り心地、に至っては尾てい骨クラッシャーとゆわれたロシアのラーダ(わしが子供の頃はまだニュージーランドの道路を走っていた)よりまだひどいといわれている。

でもキングソフトの表計算はエクセルと同じ関数式を入力しても計算を間違ったりするわけではない。
ふつーに使えます。

ところが、クルマをつくるためのジグもデジタルデザインできるようになってゆく。ラインが自動化されロボットが導入されるとアナログ要素は極小になってゆく。
人間の能力に依存しなくなってゆくと、「安くする知恵」があるほうが勝ちます。

これも前に書いたように、日本の経済は「ものづくり」にこだわる限り必ず中国に大敗する。大敗するのみならず、ものづくり社会として同質なので、併呑の憂き目をみることになると考える。

暇がないのがビンボーなせいならば、思い切った高賃金を払わなければならない。
それも若い世代に払わなければならないのは「トザイケーザイ」の記事に書いたとおりと思う。
そこから生まれる人間として過ごせる「時間」だけが、社会のconfidenceを生み、経済再生のドアを開ける。
一国の経済にとってはおもいきった高賃金に移行するというのは、個人の懐を豊かにする以上に「社会の体質を変える」ひいては「産業構造を改革して別次元に移行する」というたいへんに大きな意味がある。

空間のほうは、いうまでもない、というか、日本や北欧の都市くらいひどければ人間としての気持ちなどもちようがない。
日本や北欧で「空間」がものすごく高価なものになってしまって、人間が呼吸するのもたいへんな有様になったのには、北欧においては過大な社会保障、日本においては農家への補償がその最も大きな理由と思いますが、今日は気が遠くなるようなすみれ色の青空の夏の日である。
遊びに行かないわけにはゆかないので、残りはまたこの次。

興味深かったのは、「誰が雇用を創出しているのか」というポイント。

論文では、雇用を生み出してるのは、実は、創業10年未満の若い企業(と外資系企業)であり、また活発な雇用を創り出しているのは、従業員5人未満の零細企業と、500~1,000人規模の中堅企業であるということが明らかにされている。
大企業や社齢が高い大企業は、雇用を生み出していない。海外移転や国内子会社への雇用移転などもあり、ここ数年、雇用を生み出すどころかむしろ比率としては喪失させてきていたという実態が報告されていた。

時間というものは一時間あったら50分しか使ってはいけないものだ、とわしは子供の時おそわった。
どんなに根を詰めても10分は休まないとな。
朝の8時から起きて一日を過ごせば、午後8時にはほぼ完全な休息に入らなければ人間は人間でなくなってしまう。
10歳以下の子供なら午後8時はもうベッドに入っている時間である。
眠るためでもあるが、日常とは切り離された時間のなかで、いろいろなことを考えるためです。

日本のひとは時間を隙間なく埋めてしまうのが大好きなようにみえる。
「ぎっちりした時間」が出来上がると、ちょっと嬉しそうだ。
逆に午後4時から午後7時まで「なにもない空白」な時間があると、とても不安になったりしそうである。
この3時間を、どうやってすごせばよいだろう。

ほんとうは、3時間も空いてしまったら、大チャンスなのだから、もしきみが海辺の町で仕事をしているのだったら、ベーカリーによってクリーム・バンを買って、コーヒーのボトルをもって、海辺のベンチに歩いておりていって、ぼんやり海を見ているのが良いのです。
ずっと昔のことを考えて、ああ、あんなことあったなあ、と頭の奥のすみっこで曖昧な輪郭をなしている記憶を呼び起こす。
持っているクルマのサードギアがスムースに入らないのはなぜだろうと思う。
自分にはどんな伴侶が向いているのだろう。
SFって読んだことないけどおもしろいのかな。

文明人の特徴というべきか定義というべきかは、まさにこれであって、文明人で精神が健全なら「3時間」などは、そうやってぼんやりものごとを思い浮かべているだけであっというまに経ってしまう。
そうやって3時間を過ごせないで退屈してしまうひと、というのは、それだけ自分の中の文明が破壊されてしまっているのだと思います。

raurublock:

ULGpV.jpg
インドネシアの Lebak にある「橋」だそうな。対岸にある学校に通うためにここを渡らないといけない子供も多いとのこと。

raurublock:

ULGpV.jpg

インドネシアの Lebak にある「橋」だそうな。対岸にある学校に通うためにここを渡らないといけない子供も多いとのこと。

(kogisoから)


電車の中で個性的な演説をなさってる方をたまに見ますけど、それにマジレスする人ってまずいないじゃないですか。しかしインターネットにおいては、そのようなマジレス行為が日常的に行われています。

Twitter / @トデス子 (via nagas)

いいわぁ、これ。

(via swmemo)

(hohouから)

「いい大企業だと、人材がごろごろしていて、90点以上は当たり前で、92点か93点か、というところで勝負している」
「だから、92点を出して93点の人に負けてしまうと、35歳とかすぎて、ずっとくすぶってしまうことになる」



つくづく、日本は人材のアロケーションがおかしい国だと思う。

大企業とはいえ、エキサイティングな仕事の機会、自分の力を伸ばせる仕事の機会は限られている。
なのに、「90点以上を出せるような人たち」は、こぞって大企業に入り、居つづけ、
そういった乏しい機会を奪い合う。

一方、ベンチャーでは、
「90点以上を出せるような人」ならば、実力を伸ばせる機会がたくさんある。
「いい人さえいればできるのにね」というプロジェクトが、そんな人をいっぱい待っている。

(出典: thatfunlovinfeelkatoyuuから)


結論から言うと、iBookストアで本を販売するとなると、なかなかハードルは高い感じです。
少なくともApp Storeでアプリを販売するよりも初期費用が多くかかってしまいます。

まず、デベロッパー登録自体は無料です。ここがiOSデベロッパー登録との大きな違いです。
App Storeでアプリを販売する為には年間99ドル(8400円)を払う必要がありますが、その間はいくつでもアプリをリリースする事が出来ます。
iBooksの場合、アカウント登録をするのにも、本をストアに並べる事そのものにも費用はかからないのですが、本を出版する為にISBNコードというものを取得しなければなりません。
このISBNコードを手に入れる為にお金がかかります。
(ISBNはこちらで買う事ができます)
問題は、一つの本につき、別のISBNが必要なので、本を出版する度にお金がかかるという事です。
ISBNは一つだけ買うと$125もします。この時点で既にApp Storeでアプリを販売するより高いのです。
App Storeであれば、$99でブックカテゴリーで何本リリースしてもそれ以上かかりませんが、iBooksだと一冊のリリースで$125の費用がかかります。
ただし、ISBNはまとめ買いするとだいぶお得になり、例えば100個まとめ買いすれば$575ですむので、1本$5.75とかなり安く抑える事が可能になります。
なので、例えば10人くらいでお金を出し合って100個をまとめ買いして10個づつ分けるような事さえ出来れば、初期費用を極力小さくする事もできます。本を出版したいという同士さえ集める事が出来れば、App Storeよりも安くする事も可能という考え方も出来ます。